

1F トレーニングジム
3F 武道総合空手道場

裏路地の先
2019年・・・世界はコロナ禍となった。
練習も中止、大会も全て中止。
熊谷が作った禅道会浜松支部も、存続できるのかどうかもわからないような有様だった。
何とかほそぼそと活動を再開し、1年ほどが経過した頃、手探りで小さな大会を開催した。
その時に、再認識したという。
「少年部の小さな空手大会でした。コロナ前までは、いかに大規模で権威ある大会を作るか、参加者に思い出や価値を提供していくかを考えて、大会を非日常の場にしようと思っていたのです。それがコロナで全部吹き飛んじゃって。でも、久しぶりに開催した小さな大会で、感じた事がありました。出場者は、優勝するとか上を目指すとか、そういった目的ではなく、久しぶりの試合に、どこまで動けるのだろうか、どこまで戦えるだろうか?という自分自身への問いかけみたいなものを持っていました。久しぶりなので当たり前といえばそうですが。大きな大会の順位、強い弱い、勝った負けたってのは、結局は、先に話した運、つまり相手次第ですから、自分への追求が本質に無いとね」
そこから、熊谷は、違う流派の先生にも声をかけて生徒募集の手伝いを始めた。
そして道場を開設したいという門下生に対して、新しい流派を立ち上げるサポートまで始めたのである。
「みんな同じ流派で同じ稽古して同じ価値観を目指してもつまらないでしょ」
それぞれの特色を持ち別々の目標を掲げた他流との交流が、非日常の体験になるのではないかと考えるようになったのである。
しかし、ジムや柔術を併設する事は合理的に感じるが、ただでさえ細分化されている空手の中で、自分たちの流派の人数が流れる可能性もある競合してしまう事を、どうして始めたのだろうか。
「まだ、うまく言語化できてないですが、UFCができる前まで、プロレス、ボクシング、空手、柔道、合気道、どれが最強なのか熱く語り合っていました。そんなのルールが変われば全部変わるし、目的も違いますしね。最強なんてのはやる人の才能の問題のほうが大きいという、まったく意味のない会話だったわけですけど、とても楽しかった記憶があります。それから総合格闘技がスポーツ的になって、勝つための効率化が進みました。すると先ほど言ったような多様な議論が無くなる。見ているだけなら総合格闘技の技術レベルが上がっていくので楽しめますが、競技としての効率を求めるほどに、やる側の面白さがなくなってしまって」
「たぶん合理的な正解が決まりつつある事が面白くないんでしょうね。勉強が嫌いなのは、答えが決まっているから、暗記がダルいでしょ(笑)宝蔵院の槍、宍戸の鎖鎌、武蔵の二天のような、生き死にかかっているのに、なんで選んだ武器が鎖鎌なん?って思いませんか?(笑)意味や価値を、他人には求めない、自分だけの追求。だから色々と選べた方がって考えるようになったんだと思います。大きな大会で順位を競うのではなく、小さくても、違う価値観、違う流派の人たちが集まって、自分の成長を感じられる大会があればいい。近くにうまい1軒のラーメン屋しかないより、まずい所が混ざっていてもラーメン横丁的なのがあったほうが良いでしょ(笑)うまいまずいも人それですからね」
まるで、格闘ゲームで変わったキャラがたくさんいて、好きに選べるような、バーチャルから武道を始めた、熊谷らしい発想であると感じた。
そして、こんな事を言い出すのである。
「ほら、子供の頃の裏路地!」
いわゆる「武道家っぽさ」の様な一般化されたイメージを熊谷はあまり好んでいない。
だからなのだろうか、持ち出す例も、武道から少しズラして語る。
「少年が通学路を破る心って、何も早く着きたいわけじゃないし、誰に勝ちたいとか、見てほしいとか、そういう事じゃないですよね。ただ何となく、それが楽しそうだからやる。初めて通る道は小さめの冒険、適度な緊張感。そこには色々な発見があって。自分の中で満足が得られるか、納得できるかだけの行為ですが、それこそが生きているって事だと思うんです」
調律と正午
色々と構想をすることが好きな熊谷だが、自分自身の稽古についてはどのように考えているのだろうか。
「自分の稽古は、ここで毎日90分だけやっています」
複合トレーニングマシンやダンベル、自転車、グローブやミットなどが置いてある部屋の写真を見せてくれた。8畳ほどのスペースである。
「どのくらいの負荷が身体に入ったのか、その時にシャドーの動きはどうなるのか、考えている通りになっているか、という身体と感覚のズレを直すように取り組んでいます。健康運動レベルですね(笑)イメージとしては『調律』している、という意識を大切にしています」
調律とは、弦の張りを調べて整える、ちょうど良い張り具合にするという事だ。
そしてこの場所を、茶室の様にしたいと言うのだが、なにもお茶を飲むためにではない。
「利休の茶室は、いくつかの手順を踏んで、最後はにじり口っていう狭い入口をくぐって入るらしいんです。それは、封建制度か生みだした、非日常への入口なんです。あるいは高校時代に部活動で取り組んだ弓道の、射法八節の手順もそうなんですよ」
楽しそうに語る熊谷は、サウナを作る計画を練っているというのだが、娯楽の為ではなく、どうやら本気で自分なりの非日常の場所を完成させるつもりのようだ。
「サウナも、身体への負荷のかけ方、つまりストレスの適度な与え方がハマると、整う状態になりますよね」
なるほど、ここで熊谷の考えている非日常の定義を思い出した。
ストレスを手順よく適度に与え、カオスを整えていく先にある、というものだ。
自らの稽古を調律だと表現するのも、弦の張りを適度なストレスだと考えればわかりやすい。
「非日常のイメージは『正午』です。太陽が横から照っていると、自分の後ろに影が伸びますよね。陰陽の比喩は「善と悪」とか「正解と不正解」とか「過去と未来」という解釈で、まあ、「強い弱い」や「勝ち負け」でもいいんですが、それは実在しないただの思考です。日常ではその雑多な思考が散らかってる状態です。そして昼12時、正午になると、太陽は真上なので、伸びた影は消える。それが今、この時。大いなる正午。現実、リアルというのはその一瞬にしかないので、日常では中々感じられないから、手順を踏んでいくプロセスが作られたんでしょうね」
説明が独特だが、何となくわかるような気はする。
つまり、日常生活に追われていると、ついつい忘れてしまう生を、今の瞬間を意識することで、身体的実感を得られる、マインドフルネス的な事を言いたいのだろう。
日常では、老後に不安を覚えてしまうように、失敗を恐れてしまうように、まだ実在していない事を考え、思考を散らかしていないだろうか。
適度な負荷を手順よく与えていく事で、余分な思考を剥がしていく。
そして残った感覚を整理していく行為が調律だというのだろう。
そうやって正午を迎えるのだ、と。
「こんな話は、紀元前から数多の哲学者がすでに言っている事ですから、それを実験しているだけです。何かの役に立つ訳ではなくて、ただの自己満足(笑)」
何度か取材で足を運んできたが、最初に呼ばれたのは道場だった。
次はトレーニングジム、そして今回は接骨院の骨模型が置いてある部屋で話のまとめに入っている。
色々な『場所』を作る事に取り組んでいる最中である事はよくわかる。
違う業態をいくつも運営する熊谷は、武道家以外に会社経営者という側面がある。
経営論については触れないが、データから趨勢を絞りこみ戦略とヘッジを考える、実に合理的思考という印象だ。
多くの人の思考と感情の潮流を見きわめる。
理解と共感を一定数、得る事が必要だと語る。
だが、自分の稽古の目的は、なにも合理性を求めているのではく、誰に理解される必要もない。
少し気になった裏路地を見つけるたびに、小さな冒険に踏み出して行く事が、熊谷にとっての武道人生ではないだろうか。

記事 景虎(カゲトラ)
情報誌を発行する株式会社週刊chanceに勤め、1999年に支店長就任。
三河地区では最高部数を 売り上げる支部長となり、その後、後輩にバトンタッチし退社。
以後は武道や古武術の研究と、文章を作る仕事に取り組んでいる。